#1 荒井由実「瞳を閉じて」①

ユーミンの名曲、瞳を閉じて。この曲のエピソードをたどると、地方と都市の距離や、“東京のイメージ”、ユーミンと東京の関係が浮かび上がってきます。

この曲は、筆者自身の旅先の記憶と密接に関わる曲だからです。旅行から帰ってきてから数日経つころ、「あそこはよかったなあ」「あのときの匂いよかったなあ」と、旅先を回想することも多く、そうしたなかでこの曲は小学生の頃から大学生の現在まで、やけに接点のあった印象深い曲であります。その詳細は次のエントリー以降で話していくとして、まずはこの曲とその背景を、できる限り信頼できる資料を参照しつつご紹介します。

目次

シリーズ東京をみる#1 荒井由実「瞳を閉じて」①
1.ある女子高生の投書から生まれた
2. エピソードが知られて
3.歌詞を考察する
4.東京で生まれ育ったユーミンが書く詩


—以下は次以降の記事で扱います
2.八王子とはどんな街か-明治まで遡る-
3.ユーミンが育った時代の八王子と東京

この記事で登場する街:五島列島 奈留島(長崎,八王子(東京)


1.ある女子高生の投書から生まれた

作曲は、ユーミンこと松任谷由実さん。「ひこうき雲」や「やさしさにつつまれたなら」でよく知られるアーティストですね。松任谷正隆さんと結婚する前、旧姓の“荒井由実”で1972年に18歳でデビューしていました。若いです。今日扱う「瞳を閉じて」は1974年に、ユーミンの出ていたラジオ番組への投書がきっかけで制作されました。

ラジオ番組へ投書したのは、当時、五島列島の奈留島(なるしま)で高校に通っていた藤原あつみさん。彼女が通っていたのは、奈留島にあった県立五島高校 奈留分校でした。

五島列島は長崎県の西の海上にあります。グラバー園や浦上天主堂のある長崎市からは100km離れていますが、大きく5つの島が連なる地域です。そのなかで奈留島は真ん中、下の地図を見てもわかるように、深く細長い湾がたくさん見られます。人口が一番多いのは南の福江島(ふくえじま)で、現在は、奈留島も福江島も同じ「五島市」になります。

投書を送った藤原なつみさんが「校歌には本校にまつわる歌詞しか出てこない。自分の島の高校らしい校歌が欲しい。」と、ラジオ「オールナイトニッポン」内の企画「あなただけのイメージソングを作ります」にむけて送ったところ、実際にユーミンからデモテープが送られてきたようなんです。それがこの「瞳を閉じて」という曲でした。

「瞳を閉じて」は1974年10月リリースのアルバムMISSLIMに収録されている。ティン・パン・アレーのメンバーがプロデュースするというすごいアルバム。実は山下達郎さんもコーラスアレンジで参加している。

正式にレコーディングも行われ、同年にリリースするアルバム「MISSLIM」の2曲目に収録されます。「生まれた街で」「瞳を閉じて」「やさしさに包まれたなら」という曲順で進みます。「やさしさに包まれたなら」はジブリの映画『魔女の宅急便』で使われることになる曲ですね。

2. エピソードが知られ

この曲のエピソードは、NHKが制作放送していた「新日本紀行」という番組で、リリースから2年後(1976年)に取り上げられ話題になります。

作曲を依頼した藤原さんはこのとき既に高校は卒業しており、大学進学のために都内で働きながら予備校に通っていたところでした。
記者に、地元(奈留島)で好きな場所は、と聞かれて、“海がよく見える高校1年生のときの教室の窓側の席”と言っています。ユーミンに校歌を依頼したときはここからの景色をイメージして手紙を書いたそうです。(2015年放送のNHKのSONGSでは、教室からの写真も同封されていたとユーミンが語る場面もあります。)

1976年放送の新日本紀行「歌が生まれて そして」(30分)
分校だった舞台の高校は、再編で長崎県立奈留高校として独立することになる。その際、「瞳を閉じて」を校歌とするか会議している高校の先生たちや、依頼した女子高生の同級生たちが出てくる。島に残って漁師を継ぐ青年が登場する。

無事送られたこの歌、校歌にはならなかったものの、“愛唱歌”とされました。「フォーク調の歌詞は校歌に合わない、だけど生徒の思いでできた歌だし、そこは大切にしてあげたい」と、先生たちが職員会議で語っています。

(補足情報。この年、奈留高校として独立しましたがそののちに新しい校歌が別に作られ、そちらが正式な校歌となりました。奈留高校の旧公式ホームページによると、その新しい校歌の作詞は、歌謡曲界で著名な石本美由起さんだったとか。「矢切の渡し」の作詞をされている方です。JASRACの理事長もされていました。この新日本紀行のエピソードを知って、自分が制作しようということで、その校歌を作詞されたようです。)

「瞳を閉じて」はこの後、高校の愛唱歌として採用されました。また現在は、この奈留島から船が出航するときに毎回流れ、島の人に愛されているようです。

1988年、この曲が全国の音楽の教科書に載ることになり、地元奈留島では歌碑を立てようという話が持ち上がります。その記録の一部が以下の動画です。(こちら視聴できなくなっています、すみません。)

https://www.youtube.com/watch?v=e_RqgWbEk5M
この映像は、1988年放送の「九州特集 瞳を閉じて ユーミンが贈った島の歌」の一部だと思われる。曲ができてから16年経ち、上の動画で登場していた青年たちが中心になって、瞳を閉じての歌碑を高校の敷地に建てることになった。その除幕式で、初めてユーミンがこの島を訪れる様子が映されている。

3.歌詞を考察する

この曲はユーミン本人が話しているように、一度も島を訪問したことのない状態で、お便りをもらったあとそのイメージで書き上げたといいます。

鳥の声やフェリーの汽笛を思わせるようなイントロで始まるこの曲。歌詞を聞き取って書いてみます。

上から、メロディの構成で考えるとA B – B’ – A’ B”と分けられそうだ。

島を出て行く人たちも、見送る側の人たちも、島のことを思い出せるような歌詞になっているなあと感じます。

個人的には、歌詞の特徴として、過去を振り返っているというよりも“沖まで船を出そう”とか“手紙を入れたガラスびんを持って→海に流そう”とか“丘に立とう”と、前向きな詞がカギになっているように思います。


また、“霧が晴れたら 小高い丘に立とう”の部分は、メロディは最初と同じなのですが、バックのギター、ピアノが四分打ちになります。視界が開ける場所に出たような、開放感を感じるアレンジです。遠くに行った友人の住む場所を想像する、場所と時間を超えていこうとする助走のような感じがします。

4.東京で生まれ育ったユーミンが書く詩

ユーミンは作曲したときのことをこう語ります。

(1976年、ラジオ番組を通して校歌を作ってほしいと頼まれたことについて司会から)

リポーター:「どんなイメージで(作られたんですか)。」

ユーミン:「なんていうのかな、その学校の校歌という名目でもね、学校の人が歌うというより。

話によると、そこの島にはみんな残らなくなっちゃってると。

例えば集団就職とかいろんなことで、島以外の所にみんなこうバラバラに出て行くということを聞いたので、(奈留島から)出て行った人が歌える歌がいいんじゃないかと思って。」

新日本紀行「歌が生まれて そして」(1976年放送)より

(1988年、スタジオでユーミンが)
「一生懸命イマジネーションを働かせて、念写みたいな気持ちでね(笑)、書いような気がするんです。すごいユートピアがあるというか。のどかで平和でね。なにものにも変えがたいようなね。美しい風景があるんじゃないかなあと。」
——————————————–
(1988年、歌碑の除幕式が奈留高校で行われた際に)

「お手紙をいただいてこの曲を書いたときは、無心に行ったことない場所をイメージして、黙々と書いた覚えだけがあって。これからずっと音楽をやっていくのに、今日の感じを忘れたくないなって思いました。」

九州特集「瞳を閉じて ユーミンが贈った島の歌」(1988年放送)より

(2015年、ユーミン2回目の奈留島訪問で)
まだ見ぬこの島の風とか波の抑揚を一生懸命込めたつもりなんです。」

SONGSスペシャル「松任谷由実 見えない大切なものを探して」(2015年放送)より

ユーミンは作曲当時、奈留島に行ったことがなかった。それであの歌詞とメロディを考えたって、やはりすごいなと思います。ここで、ユーミンが故郷を離れる歌を書いていると。東京で生まれ育ち、そのニュアンスをどうして生み出せたのか不思議なのです。

ユーミン自身の動きについて、一般的に知られていることについて少しだけ。ユーミンは東京の八王子の呉服屋さんに生まれます。荒井呉服店という、今もある、創業100年を超えたお店です。ピアノやベースなどを幼少期から習いますが中学生になるころには、六本木のレストラン「キャンティ」にこっそり出向き、そこで多くのアーティストたちと関わる様になったといいます。このころもう作曲をしていたようです。(「翳りゆく部屋」の原曲と言われている「愛は突然に…」という曲。これはユーミン作曲家デビューの曲でありますが、それが14歳のときのようです。)高校は杉並区、大学は八王子市内の遣水。生まれた場所から過ごした場所まで、基本的に東京都内のように見受けられますね。

夜のキャンティ。

東京にいながらにして、故郷を離れるという感情をこうして歌い、それが今日まで島の人にも、他の多くの視聴者にも受け入れられたという点は特筆すべきだと思います。

故郷を思い出す、改めて元いた場所の特有の価値に気づくことの大切さを、曲が教えてくれるような気がします。

と考えてみると、故郷を懐かしむ気持ちはどう生まれてくるのかが気にになります。次の記事では、曲を依頼した藤原(侭田)あつみさんのインタビューを紹介しながら、「上京する」という構造について考えてみようと思います。そしてより広く解釈して、住んでいた場所を離れるという行為について、私自身の経験も例示しながら考察してみます。

ここまでありがとうございました。

続きの記事はこちら→荒井由実 「瞳を閉じて」② 故郷を懐かしむ気持ちはどう生まれるか


(一部言い回しと情報の訂正を行いました 2021.8.12)

参考資料一覧
・1976 NHK 新日本紀行 「歌が生まれて そして」
・1988 NHK 九州特集「瞳を閉じて ユーミンが贈った島の歌」
・2015 SONGSスペシャル「松任谷由実 見えない大切なものを探して」
長崎県立奈留高等学校 旧公式ウェブサイト 校歌と愛唱歌
・1996.2.14(夕刊)読売新聞
旅にでたくて / ユーミンが作った県立高の愛唱歌 ~ 五島列島に残るメロディー 
YUMING ZOOのサイトに掲載されていたものです。
・2020.4.28(夕刊)中日新聞 キリシタンの里 奇跡の信仰史
↑twitterで「哲子」さん(@nori530moko)の投稿で見つけ参考にさせていただきました。
・2018.11.07 太田出版ケトルニュース コラム 半世紀以上の歴史を持つ『ANN』 皇族がパーソナリティになったことも
多摩美術大学 八王子キャンパス ウェブサイト

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