「東京を捉える」を始めます
と、題しまして、何年続くことになるかわかりませんが企画を打ち出そうと思います。あまりに大きなテーマです。
自分の興味のある切り口で書いていこうと思います。東京といっても広すぎます。あらゆる要素によって成り立っている街です。
なぜこれを始めることにしたのか、自分の生い立ちや生活環境を最初に語って、視点を明確に示す必要がありますね。全てを記述するのは難しいですが、話の主軸を知ってもらおうと思います。
私の生い立ちと経緯
書いているのは現在22歳の学生です。大学生として、東京都心に通っています。自宅があるのは東京から30kmほど離れた郊外なので、高校生までは月1度くらいしか都心部に行くことはありませんでした。高校と自宅の往復をしていれば、生活に必要なお店は十分ある環境だったのが大きいでしょう。行き始めたのは都内の予備校に通うようになってからです。
東京に通いはじめて思いました。「この街はすごい。」どれほどの人がここで過ごしているのか、毎日肌で感じることになります。単なる人の多さだけではなく、繁華街の多さや仕事の種類の多さというリアルタイムで感じることのできる活発な姿が挙げられるでしょう。
また、もともと街を歩くのが好きなのもあって、授業の空きコマをわざわざ3限分くらい作り大学の周りを歩いています。古本屋を探し歩いたり戦前の建築物を探したりすると、時代を遡ってその場所を知ることができます。地理学を専攻しているのも当然あると思います。
それに加えて、一見関係ないと思われそうな自分の趣味が、私の東京の雰囲気の捉え方に影響しました。それは“音楽”です。主軸を簡単にたどりましょう、中学1年生のとき、シンセサイザーへの興味からCASIOPEAやT-SQUARE(いわゆるフュージョン)にどハマりしました。そのころYAMAHAのDX7というシンセをリサイクルショップで買い、修理しながら使い始め、高校生のころはYMOにどっぷり浸かります。
私が生まれたのは1998年、自分の生まれた年を飛び越えて、80年代にシンセをきっかけに、身近なことのように解釈できるようになりました。
歌詞が陳腐だから歌モノはつまらんなどと言っていた生意気な中高生で、インストばかりにこだわっていた数年間でしたが、当時くるりを聴き始め、歌詞に魅了されました。くるりの歌詞を書き留めながら、PVになった場所や歌詞に出てくる場所を歩き、雲の上のような存在だった“アーティスト”が、複雑な心象風景やごく普通な日常の景色を語っていることに感動したきっかけでした。
そして大きなきっかけは浪人したことにありました。当時予備校で古典を教えてくださっていた先生が、Facebookで慶應大学で行われていた特別講義のことを投稿していた。70,80年代にとりわけ活躍した音楽プロデューサーたちによる当時の日本ポップス界を、当事者として振り返り音楽的にも構造を分析するというものでした。
自分が聞いていたアーティストたちが、新宿や渋谷という地域を舞台にどんどんつながっていく。誰々と誰々が同じ場所で大学時代を過ごしていたとか、ここのライブハウスで一緒に演奏していたとか。
この講義に近しいことが、講義をされた方々によって本にまとめられました。それを読んでいて、これは音楽業界の歴史というよりも、とりわけ渋谷という都市が若者の街として・日本を代表する文化の街として育っていったことの貴重な記録だと思ったのです。
この本との出会いをきっかけに、自分の聞いている音楽はどんな環境で育ったアーティストによって作られ、どうプロデュースされたのか。そこを明らかにすることが、最終的に東京という都市のイメージが、人々にどう受け入れられたのかを振り返ることにもなり得ると思います。
そういう経験をして、大学生になり聴く音楽もどんどん広がり、地理学を学んでいる。世の中に眠っているたくさんの資料のなかから拾い出して並べ、再提示する。私にはこれができるのではないかと思いました。それが、この企画を始めた経緯の一つです。
心に留めておきたいこと
この構想は2019年の夏からありました。他の街についてはまた別の視点で取り上げていきますが、ひとまず、ここまでの東京が、どんな人たちによって形作られてきたのか、その一片を整理してここに記録していこうと思います。
その作業をするにあたり、私の考えはどこからどこまでか、一方でデータがあったとすればそれは誰がまとめたものなのか、その出典を明確に記していくことが重要です。その点留意して進めていきます。
情報提供や、一緒に考えようという方がいらっしゃれば、SNS等で言ってくださると嬉しいです。皆であーだこーだと議論していけたら良いなと思います。
2020.4.29 兒玉真太郎