京都から考える「異なるもの」への理解
京都にまつわる本「どこか-文化と街を紐解くメディア-vol2京都」を勝手に出版することになったので、その本の内容を踏まえて書きます。購入できるページはまだ整えている途中なのでもうしばらくお待ちください。
(noteにも同記事を載せました)
1.70-90年代の京都の音楽文化にハマる
京都の学生文化が面白くて、特に70-90年代という僕が生まれる前の京都にハマってしまいここ数ヶ月くらい調べて聴いて見ていろいろ考えていた。
もともとくるりが好きで、京都の立命館大学のサークルから生まれたというものだから、インディーズ時代はどこで歌っていたのかな、誰と曲をつくっていたのかなと調べていたら、インディーズ時代(1998年)の京都を知ることになり、どんどん遡っていっちゃったわけである。BO GUMBOSやローザ・ルクセンブルグなどのバンドで中心にいた「どんと」もくるりから遡って知ることができたアーティストだ。京大や京産大の学生たちで結成され、デビューしていった。
メジャデビュー後に関わるアーティストたちも、本当に聴いていて自分が揺さぶられるような感覚で良い。2012年に若く亡くなったrei harakamiも、なぜかきっかけが思い出せないが今も聞いている銀河スープもそうだ。
くるり以外にも、京都音楽を深めようと思ったきっかけはある。細野晴臣が好きだというのもあって、70年代のアルバムたち「トロピカル三部作」を聴いていて、これらの曲づくりに関わっていたのが久保田麻琴というアーティストだった。久保田麻琴は京都の同志社大学に在籍していた。細野晴臣を「トロピカルダンディだ」と言ったのも彼らしい。「喜納昌吉とチャンプルーズ」という、日本に返還されたばかりの沖縄で地元のレコード会社(マルフクレコード)で「ハイサイおじさん」という名曲を作り発売していた人たちがいて、久保田麻琴は沖縄旅行でその曲を知り、何枚かレコードを買って本州へ帰ってきて色々なアーティストに渡した。そのなかに細野晴臣がいて、トロピカル三部作を作るに至ったそうだ。
70年代、80年代、90年代のこうした京都発の人たちを見ていて、何か共通点が見えてくる。そう僕が感じている。京大の西部講堂という学生管理の巨大なホールや、磔磔,拾得などの老舗ライブハウス、個人が寄付して作られたギャラリーやスタジオなどが京都には点在していて、そこで学生だった彼らの交流があったことがどんどんわかってくる。
この文章の最初に書いた本(どこか)にはそういう歴史の背景を現代に掘り起こそうと思って書いてある。日本最古のライブハウスと呼ばれる拾得(じっとく)のマスターへのインタビューもあるのでぜひ。
2.国内旅行が好きなんですが
まあそういう経緯で本を作ったわけなんだが、それとはまた別に、僕は旅行が好きだ。といっても国内旅行がもっぱらで、海外はほとんど行ったことがない。単純に1回あたりの旅費が高いということももちろんあるのだが、それ以上に、自分とその場所の接点が見出せないから行こうとすらならないというのが正しい。だから国内を鉄道とかバスで旅行するのが基本だ。とにかく、海外には興味がないと思っていた。
大学で学んでいる地理学や特に民俗学は、日本国内のかなり細かい地域に対して随分深く入り込むことができる。そこで生活している人と関わらせてもらいながらその人について知ることができたりするのが興味深い。
だから僕が普段する旅行も、旅先で住民と同じように振舞うことが旅行の楽しみ方の一つなのである。できる限り旅行の荷物は減らして、地元の人が使う想定の(全く観光客を想定していない)場所に行く。もし荷物が多くても、どこかに預けて、超身軽になる。ママチャリをレンタサイクルして、住宅街を駆け抜けてみたりスーパーに入ってただのアイスを買ってボケーっと川沿いで食べてみたり、帰宅ラッシュの電車やバスにそれっぽく乗ってみたり。そういう楽しみ方をする。時には写真や音声,映像で記録して後から思い出してみたりするのも良い。半日のことも1日のことも、1週間くらいいることもある。大学生の特権だ…
鉄道が好きでモーター音とかも楽しむけれど、普通にイヤホンで音楽を聴いたりもする。そうやって「ふり」をするのも楽しいし、車窓の景色とかその時の気分にあった音楽を流したくなったりする。
そんな過ごし方を旅先ではしているものだから、興味は国内ばっかりだと思っていた。
3.自分が聴いている音楽って一体なんなんだ?
好きなアーティストが上のように時代の幅もそれなりにあって、自分は音楽と場所と結びつけるのが好きらしいことはわかっていた。ただ、これらの音楽をそんなに自分が聞きたがるのはなんでだかここ数年ずーっと考えていたんだが、本を書いてわかった。
自分の中に、意外にも異文化を求める気持ちがあるらしい。
ということのようだ。確かに、上に挙げたようなアーティストたちに共通しているのは、どこか連れていってくれる、自分の世界とは違う香りをすぐそばに持ってきてくれるということだ。曲調だったりビジュアルだったり。そしてそれにどうやら僕は魅力を感じているらしい。ロックやフォークが海外由来なのも大きいと思うが、そこから赤道あたりだったり東洋の音楽(あるいはその西洋人からの東洋人への偏見の構造を遊んだ音楽)を聴いて、何か移動させてくれている。海外への興味があるということなのか…?わからん。
つまり、なんか繋がりが持てるけど具体的には近くできていないものへの興味、好奇心が掻き立てられているということなのか。自分の文化圏とは違う場所と言い換えられそうだ。
意外に、そうやって自分の中に冒険心があることに気付かされたのだった。(そういう視点を持てる過程は、自分が育っている文化がある程度認められているからだという指摘は受け止めざるを得ない。)
4.異なるものを受け入れること
そこで、なにか自分のそういう“消費”を超えて、地域をもっと低い目線で見れるようにならなきゃなという思考になる。
たぶん、国内の旅先に対して(都市部にも)そう思えるのは、自分にとって差異を感じられる段階があった、違う文化を少し感じられたからだ。それが共存できている環境を、強く大切にしたい。
一見当たり前なことに思えるが、今これを書いているということは、多分そういう“受容する”だとか“認める”ことが侵されようとしている空気を感じるからでもある。
アメリカの音楽をバックグラウンドに日本語の歌詞を載せ、日本語ポップスを模索した細野晴臣は、アメリカでは「曲はわかるが詞がわからない」と、日本では「詞はわかるが曲がわからない」と言われたという。「さよならアメリカさよなら日本」という彼らの曲が語るのもその、境界の曖昧な空間に彼らがいたからだと思う。そして「自分の音楽は無国籍だ」と語る。
そういう空気が、音楽からも感じ取れるのだ。自分に影響する世界がいろいろなところにあって、それらの土地へのまなざしがよりローカルになっていっていくことが大事だと思う。
改めて京都の音楽シーンに戻ると、そういう異を受け入れる懐の深さを、そこから生まれていったアーティストや街の人たちから強く感じるのである。
生活を楽しむというものが、未知への好奇心の結果として生まれた視点なんだということが今こうして気づいてしまうと、少し寂しくもなってしまった。
まあ、それも含めてそういう自分も認めていきつつ、その視点を自分の中で大切に育てていこうと思わされた水曜日でした。