古墳で「時間」と「距離」について考える

少し、旅についてのコラムを書いていきます。旅行・移動の捉え方についてです。

自分の見る景色を拡張する

旅行とは一般に空間の移動であります。空間というと、前後・上下・左右の3軸。ただ、これだけで説明するには要素が不足していると思います。旅行中の地域の認識には、単なる移動というよりも、その間に過ぎ去る時間への感覚が影響しているのではないかと思うのです。

ここでは、空間は写真のように時間で切り取って見ています。移動とは、単なる地点の移動だけではなく、時間を伴うものとして認識したほうがしっくりくるのです。

家から駅までの移動をするとき、瞬間移動はできないわけで、何らかの手段(歩き、自転車、バスなど)を使っていますよね。その手段によってかかる時間も変わり、認識できるものの数や密度も変わってくる気がします。距離を移動するということは少なからず時間がかかるということでもあり、その点、時間差は旅行の価値になりえるのではないかと思ったわけです。

具体例で示しましょう。

移動が容易にできる現在と、時間も費用もかかる行為だった過去とでは、それによって離れた場所の認識の仕方が変わるのも当然のことです。

古墳の上で感動したという経験

距離と時間が連動してこれほどまで感じられたのは、初めて福岡に行った時でした。2016年のことです。福岡市内からほど近い宇美町にある廃線跡を歩いていました。歩いているとカーブが緩く道幅が中途半端に狭いので、廃線跡とすぐにわかります。

勝田線という、近辺の炭鉱から石炭を運び出す目的で作られた路線でした。有名な竪坑櫓の脇を通ります。志免町から宇美町に入ってすぐの(廃)線路沿いに、その古墳は突然現れます。

「今昔マップ」より。左が1972年発行の地理院地図、右が現行の地理院地図である。
香椎線と並行して、かつては勝田線があったことが確認できる。その線路沿い(地図の南東)に「光正寺古墳」の文字が見える。

光正寺古墳という前方後円墳だったのですが、あまりに唐突に墳丘が現れたもので、その場で地図を見たり調べたりしていたら、

中国の「魏志倭人伝」には3世紀中ごろの日本が「倭国」として紹介されています。その倭国には色々な国があったことが記されています。その中で福岡市域(奴国=なこく)の隣にあったとされる「不彌国=ふみこく」ではないかと考えられます。不彌国の所在地は「嘉穂説」と「宇美説(粕屋)」に分かれていますが、光正寺古墳の調査で「宇美説=粕屋平野説」が有力な地域として考えられるようになりました。

「光正寺古墳公園」宇美町ホームページより

という記述があり、感動していたわけです。高校生だった当時、高校の日本史の授業で古墳時代についてみっちりと教わり、邪馬台国近畿説/九州説の研究史に興味を持っていたのでなおさらでした。(古代史や考古学はまだまだ不勉強です。)

この体験の核心は「文化的な形跡が見られる地形から、古代のことを考えることができた」ということにあります。もちろんというとあれですが、自然の力による地形変化にも“思い馳せ”ていますが、そこに人がいたという要素が加わると、こんなに自分に近い出来事として捉えられるのかと気づいたわけです。

時間は旅行の価値になるのではないか

初めての九州旅行がそんなだったので、時間を遡る経験ができる場所、しかも都市も近接していて福岡は濃密で良いなあと思うことが多くなりました。同時に、時間を遡って思いを馳せるという体験はそれ自体が価値になることに自覚的になりました。物理的距離が離れていなくても、時間を遡るきっかけがあればその先の出来事を知ることも最早旅行ではないか。それを図化したものが上に載せたものです。

再びやってきたコロナ禍において、いわゆる移動が制限されてゆくのは仕方ないことな気もしますが、そういうときこそ、この捉え方は有効かもしれないです。そういったことをまた別記事で書き加えようと思います。

ここまでありがとうございました。

“古墳で「時間」と「距離」について考える” への1件のコメント

  1. […] 一番身近な環境、つまり自分の生活環境を旅してみることにしたわけです。未知のものや距離があるものは旅先にできるんじゃないかという仮説を立てました。(その詳しい解説はこちらの記事に書きました。) […]

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