池島から書いてみよう#0
浪人生の夏にはじめて池島を訪れてから7,8年が経ちました。当時から身体の一部のように持ち歩いていたカメラが先日壊れてしまい、またその場所が高島(池島から近い、長崎の炭鉱離島)を訪れているときだったこともあり、その月日とこの間(かん)の経験を振り返っています。行き始めたのが2017年ですから、それからはもう、社会も人々も変わり、自分の境遇や向き合い方も変わってきているのだろうと思います。
私自身と直接に関わりのあるひとは、何度も聞いた話かもしれませんがもう一度。実はここdokokaでは大きく取り上げていないかもしれません。
改めて。池島は、長崎県の沿岸部に浮かんでいる有人の島です。五島列島や対馬・壱岐ほど離れてはいなくて、本土とは直線で5kmほどの比較的近いところにあります。県庁所在地の長崎市中心部からは30kmほど離れていて、第二の都市・佐世保からも同等の距離、どちらからも車・バスで1時間半ほどのアクセスです。
そもそも長崎県は有人島の数が日本一で、県内で72も(R6年2月発行 長崎県地域振興部地域づくり推進課資料を参考)あります。
これだけ多くある島のなかで、池島は1周4kmの小さい島です。人口は100人ほど。
(たった!)20年前に閉山した炭鉱とその街が残ったままに今も暮らしが営まれていて、その景観や独特な空気が魅力として受け止められています。
私は千葉の実家で大学浪人をしていた2017年にこの島を知って、九州大学(福岡)のオープンキャンパスと抱き合わせて旅程を組み、半日の滞在期間だったのですが初めて上陸しました。以来、大切な旅先になり、卒論や修論のフィールドとさせてもらい、エッセイで取り上げさせてももらい、自分と切ってもきれない土地となっていきました。
卒論のタイトルは『池島における集落構造の変遷とその要因-長期的な視点の獲得-』
修論のタイトルは『地域・住民のあり方に応じた「土地の記憶」の収集整理と共有-長崎県 池島での実践-』
でした。私自身、文化地理から情報編集デザインへ、学ぶ分野を移してきたのですが、通底している興味は“いま見えている景色はどのようにして成立したのか=どんな状態の瞬間をいま目にしているのか”ということだと思います。
池島という土地は、目の前に現れているなにか一つを考えるとき、ここの「離島であること」「炭鉱(産炭地)だったこと」「単一企業の影響下が強かったこと」「吸収合併を受けた地域であること」「西彼杵半島沿岸部であったこと」など、それぞれひとつづつ理解をしていくと、周辺地域の特性に始まり、広くは国家的政策の変遷と無縁ではないことを目の当たりにさせられます。あまりにその応力や関係性がダイナミックで、局所的で(一見)特異なことをみていたつもりが、実は広範に及ぶ社会の仕組みや、都市部での生活との連動を明らかにされる、体験をしました。
島に通うこの8年間では、自分の境遇は変わってきました。そういうなかで定期的に行っているので、結果として島に行くことが、自分の現状を認識する機会にもなっています。
2024年3月に大学院を卒業してからは特に、自分自身どう日々の生活をしていくか、それと島とどんな関わりかたをするかは連動してもいて悩んでいます。一般的にいわれる研究者のようでもあり、ある程度自身が関与することも大事、という価値観も自分の中にあって、そのなかで、居住者ではない自分が、必ずしも生活環境が安定しているとは言えない地域と関わることについて悩んでいます。そうこうしているうちに12月になってしまった。
在学中はリ・パブリックという集団でインターンさせてもらっていたのですが、その間に全国の地域デザイン実践者の人たちとも出会って話すなかで、この問題意識は個別な池島だけの話ではないとより感じることが増えました。福岡という都市でいま2年半暮らしていますが、福岡で出会い話す幾多の人たちとの会話でも、十分にそんなことを感じます。
最近は正直に、こうしたぼんやりした感情も持ちつつ、前進していることもあります。大学生・院生という肩書きがなくなって、文字通り“フリー”になった存在として、自分がどんな意識をもって社会の関わるのか、はホットなテーマです。仕事をどうするか、と島とどう関わるかはその意味で連続しています。少しでも、意見や疑問など、共有できたらと思ってこのウェブサイトを動かしていくところです。納得いくようには整理できていないので、一つの記事として完成させることは見えていませんが、日々アップデートしていく予定です。独立したカテゴリを立てることができたらいいなあ。
まず池島については、毎回の訪問記を時系列で作りつつ、同時にテーマを立てて時空間に横断して考えていけたらと思っています。ご意見ご感想など、SNS上での反応など、お待ちしています。