広島第二の都市 福山-綿花から重工業へ-
広島県福山市。県の東端に位置し、岡山県にも接する自治体です。この秋に訪れる機会を得、駆け足ではありますが散策してまいりました。私の中で福山というと、川の中に街がある草戸千軒町のイメージがありましたがそれは江戸時代初頭になくなっています…
1.まず駅前に降り立つ
降りたのは初めて、駅の北側、すぐ目の前に見える福山城の石垣が印象的です。駅南側は広大なロータリーがあって、市内各方面だけでなく瀬戸内海の島々や愛媛まで向かう高速バスなどもここを発着地としています。
前情報を何も入れずにきた私、そんなときは
1.定食屋
2.古本屋
3.カメラ屋
を目指して行動します。結果として商店街を歩けたりしますから良い目的地であります。
駅から見えるところに、岡山を中心に展開する「天満屋」がありまして、その裏にアーケード。そこに古書店を見つけました「児島書店」。棚のはみ出し具合もちょうどよく、大型本もちらちら。郷土誌や比較的最近の地方文化誌を探して入ってみたら興味深い本を発見、購入となりました。
環瀬戸内生活文化誌 ゼピロス。瀬戸大橋開通を目前に、行政的には区切られてしまっている地域を、瀬戸内海を中心にして捉え直そうといったような本でした。山陽新聞社発行です。タイトルとなっているZephyrosはギリシア神話に登場する西風の神。豊かなものを恵んでくれる、蘇生力を持ったものとして知られています。環瀬戸内というのも、連帯感のあるネーミングです。そのあと何号も出されたそうで、もっと読んでみたいところ。似た雑誌で「FUKUOKA STYLE」を思い出しました。素晴らしいですよ。
そんな幸先良い出会いがあり、目の前のお店で遅めの昼食を。この2階の店舗はちょうど開店日だったそうです。美味しかった…ほうれん草が良いです。帰ってきて調べてみると、1階の中華そば「そのだ」とこの包愛珈琲は大阪発のFAMILY EXOTIC RESTAURANTに経営されているそうですね。
実は福山に到着したのが13時ごろでしたので、しかもこの日、日が沈まぬうちに鞆の浦に到達せねばということで、急いでいました。
駅前から国道2号にむけてまっすぐ伸びる55m幅の道路は戦後の区画整理の成果を感じます。駅正面からみると左に天満屋、右に2012年までcaspaが、右前方には高層の複合施設アイネスフクヤマがあります。かつては福山そごうもありましたが、歩くには駅から若干離れておりました。2020年8月にその後継のRiM-f(リム・ふくやま)も閉店し処遇が注目されているところです。
ines福山のある場所にはかつて繊維ビルというビルが建っていました(seniを逆から読んでines・アイネス)。1961年に建設されています。「繊維」とはなんでしょうか。
2.山陽のみちの変遷と繊維業
福山周辺の地域との関係を地図から見てみましょう。
ここ福山は備後国にあたりますが、この北西に府中という街があるように、国府は現在の広島県府中市付近にありました。奈良平安の時代は、今の福山駅付近ではなくその北、井原や神辺、府中を通るルートが山陽道で、現在の福山駅から南の市街地は遠浅の海。現在の中心市街地は主要街道沿いではなかったわけです。
中世になると府中までは行かずに、神辺から芦田川のへりを通って尾道へ抜けるルートが主要な交通路となります。
江戸時代になって、この備後国に水野勝成が入封し福山城が築城されます。山陽道に近い場所を選んだようです。現在の市街地の原型はこの頃に生まれたものでしょう。
福山城の築城にあたり、流路がよく変わる芦田川の工事も行われ、農業用水の整備などが行われます。潮の満ち引きで海水の影響も受けることもあったでしょうし難工事だったと想像されます。城の北にある蓮池公園や南東の福山市立大そばなど、このとき整理された流路が残っています。
水野勝成はこの福山と神辺一帯で、塩に強い綿花の栽培を奨励。女性が木綿の織物を生産するようになり、織物の産地としても発展します。大正昭和あたりからは「備後絣」の産地として知られていきます。戦時中は統制で軍服の製造などに舵を切りますが、その過程で織物の製造より縫い合わせる仕事、つまり縫製業にシフト。戦後は時代に応じて作業服やジーンズなどに転換。ジーンズの街として知られる倉敷児島もいってみれば隣です。神辺で糸の染色、井原で織り、新市で縫製、児島でダメージ加工という分業体制が成立しました。現在、新市には広島県アパレル工業組合の会館があるようです。なるほど、そうしたやりとりが行われているのですね。
ということで、福山駅前にあった繊維ビルとは、そうした縫製業と衣類関連産業に携わる福山の企業が入居していたビルだったというわけです。福山の成立、綿花栽培から連続していたものだったと言えます。
3.戦後、経済政策のなかで
戦前の地図と現在を見比べてみると、昔は市街地が駅の東側に特に集積していたことがわかります。まだ城下の雰囲気を残していたようです。
太平洋戦争も終わる頃、福山は陸軍の歩兵41連隊となっていたり、その隣に火薬の製造を行っていた工場「日本火薬(日本化薬・日化)」もあり、駅前には城もあり、標的として認識されていました。広島市街に原爆が落とされた二日後、福山はB29による空襲によって壊滅的な状況となります(福山大空襲)。市街地の8割が被害を受ける大規模なものでした。
そうして戦後、「戦災復興都市計画」が福山でも指定され、現在の広幅の駅前道路や、中心部を避ける郊外道路の整備が盛り込まれました。軍用地が緑町公園に転換され、駐屯地は東芝の工場となりました。
戦後の福山の発展で注目すべきは、軽工業である繊維業から、経済基盤として重工業が加わったことが大きいといえます。
鋼管町という字がつく広大な土地は日本鋼管(JFEスチール)の製鉄工場です。1956年に誘致が決定してから10年間かけて埋め立てと建設を進め、1966年から操業を開始。大量の雇用が生まれ、山陰含め周辺地域から移り住んでくる従業員とその家族の流入で、福山の戦後発展の契機となったことでしょう。
その背景として、1962年にの地域間の均衡ある発展を目指して国が制定した「(第一次)全国総合開発計画」について触れないわけにはいきません。この計画は、戦後復興や高度経済成長の過程で東京大阪と他の地域間で開く“一人当たり所得の”格差を是正することを目的に計画されたものです。その2年前の1960年、当時の池田勇人内閣は、10年間で1人あたり所得を2倍にすることを目指した「国民所得倍増計画」を打ち出しています。
全総では、地方都市の経済基盤になる産業(主に重工業)を定着させようとしました。福山はその一つ、備後工業整備特別地域の一部となり、税制優遇がなされました。石炭から石油へのエネルギー転換、製鉄業への注力は、国を挙げてのプロジェクトであり、結果として格差是正というよりも所得倍増のほうに重点が置かれた工業立地政策だったといえます。島根や鳥取など山陰からの人口流出を加速させた面もあるからです。
こうして、倉敷の水島から福山、尾道、三原と続く瀬戸内工業地帯が形成され経済発展が続きました。冒頭で紹介した福山天満屋はその頃建設された店舗であります。
その後日本の各都市が歩む郊外化は福山でも例外でなく、ロードサイドへの商業施設移転は、ポートプラザ日化などの開業に現れます。
駅前のcaspa跡地も再開発中ですから、また次の段階ですね。実はレンタサイクルもして北部のほうも行ったり南の鞆の浦にも行きましたので、今度紹介できればと思います。
今日はここまで。長々とありがとうございました。
参考資料(順不同)
・片岡俊郎(1987)『備後福山、地方からの目』,成経堂
・『ゼピロス 創刊号』(1984),山陽新聞社
・衆議院 制定法律一覧 工業整備特別地域整備促進法
・減速進行 廃止鉄道ノート 鞆鉄道を訪ねて
・備陽史探訪の会 わが町 日本鋼管とともに(1)
・永田 瞬(2012)『三備地区における繊維産業集積の現状』,福岡県立大学人間社会学部紀要,21-1,23-39.