②在郷町「増田」の発展を知る

①はこちら→木村伊兵衛「秋田」から得るもの

2020年1月、初めての秋田旅行で増田という街を訪れました。文化庁が定める重要伝統的建造物群保存地区に2013年に選定され、近年注目されています。

今日は、そんな増田町の成り立ちと発展の要因についてご紹介したいと思います。

南北朝時代に築かれた城と城下町に始まり、江戸時代には葉タバコや生糸の集積地、明治時代には水力発電、特に大正時代には鉱山の操業が街に深く関わってきました。その変遷を辿ってみます。

商人と発電所と鉱山

下の地図を見てください、水沢へ抜ける手倉街道と、遠く仙台へ抜ける小安街道の合流地点に増田があることがわかります。そして、2キロほど離れた十文字の街には、奥州街道と並ぶ東北の大動脈、羽州街道が通っています。羽州街道を通じて北は秋田や青森、南は山形,福島,江戸へアクセスできる、そんな場所にあったことがわかります。また、街のすぐ南では成瀬川と皆瀬川が合流し、水運の面でも重要な場所だったと想像されます。

増田町と街道の関係。赤く濃く縁取られているところが増田の伝建地区です。

江戸時代はこの付近で名産となっていた葉タバコや生糸の集積地として機能したようです。それに応じて街が賑わい、資金力のある人々が集まり、在郷町としての性格が強まります。その過程で醤油屋、酒蔵といった商業も集積していきます。明治になると、タバコが国の専売局による一元管理となり(煙草専売法・1904)、「増田煙草会社」が国に買い取られることになりました。

このとき、地元の煙草生産組合の取締役補佐だった方が、増田町の醤油屋が自家発電しているのを見て、発電事業に着手します。1911年から1967年にかけて、増田町を中心に県内の約4万戸に電力を供給し続けました。

増田町観光協会オフィシャルサイト/増田水力真人発電所(昭和初期)より。田沢湖の北ぐらいまでが範囲だったことがわかる。

一方で、1700年代に黒鉱(くろこう)の鉱山がこの付近で発見され、大正時代には大鉱脈が見つかり採掘が本格化しました。(成瀬川を上流方向に行ったところに遺構があるのですが、まだ未訪問なので改めて訪れたいと思います。)

鉱山も閉山し、高度経済成長を経て、国鉄・JRの通る十文字駅のほうに賑わいが次第に移り、そちらを旧羽州街道のバイパスが通ったことで、増田の街には旧来の建物や街並みが残りました。(鉄道が通らなかったことで街並みが残った例は日本中よくみられるパターンです。)

江戸から昭和にかけて、色々な要因で街が賑わってきたことがわかっていただけると思います。以下、2020年冬の旅行を辿ってみます。


増田に泊まる-林旅館-

宿泊させてもらった宿は林旅館という、増田町中心部にある旅館。この旅行を計画していて、インターネットで見つけたもののホームページがないことに気づきます…電話で予約させてもらいました。

当日、最寄駅の十文字駅に到着。雪混じりの雨のなか、びしょ濡れになって3kmほど歩き旅館に到着。宿泊客は私だけでした。

到着するとすぐ部屋に案内してくださり、入ってみるとストーブがきいた暖かい部屋で泣きそうになりました…その日は気温5℃もありませんでしたからね。

わざわざ僕1人のために、お風呂も、美味しい夕食も用意していただきました。

あきたこまちはいいなあと。その晩に考えたことはこちらの記事に書いてあります。→木村伊兵衛「秋田」から得るもの

冬の朝焼けは美しいですね。

前日に街に来た時間が遅く、街を見ずに旅館へ入ってしまったこともあり、翌朝から伝建地区を散策しました。

街並みの何がすごいのか

伝建地区に指定されているのは以下の図で黒く囲われた範囲になります。90度に折れる青い線が表通りで、小安街道にあたることがわかります。その両脇に、一本裏の通りが裏通りとなっています。

横手市増田伝統的建造物群保存地区保存計画(2018.07) p.29より

そしてこの地区が伝建地区に選定された最大の要因。それは、表通りと裏通りで区切られた領域に見られる、この地区の独特の住居配置によります。もっと寄って見てみましょう。下の模式図をご覧ください。

増田の建築の特徴は主に3つあります。一つは、街道沿い特有の短冊状の地割になっていること。増田の場合は、小安・手倉街道が表通りになるのですが、並行して裏通りがあり、それぞれ敷地が裏通りで区切られているのが特徴です。二つ目は蔵が上屋という大きな屋根に覆われていること。図で青く色が被せてあるところです。そして三つ目、中にある内蔵は土足では上がらない、つまり室内のような位置付けであるということです。

右側が内蔵。建物(上屋)に覆われていることがわかる。
内蔵の内部。靴では上がらない。地元産の栗の木が使われていて、当時からよく磨かれていたようである。
内蔵の扉部の意匠も細かい。縁取っている白線の幅の精度が高く、かなり良い左官師に施工してもらったことがわかるという。
この建物は資料館として使用されている。写真が、上で示した内蔵を覆う上屋である。
中に蔵があるとは、言われても気づかない。

増田ではこの内蔵が、町全体の蔵の半分を占めます。

雪国であるというのが、このような形になった要因と考えられています。財産やお金を保管する倉庫として使われた「文庫蔵」や、商家として発達し同じ建物で住まう従業員が増加したことを受け、当主だけの空間を必要として作られた「座敷蔵」に大別されるといいます。上屋に覆われていない外蔵は一般的な蔵と同じく、米やお酒,醤油などの貯蔵庫として使われていたようです。

特筆すべきは、道路から内蔵の存在を把握できないということでしょうか。その従業員、あるいはその中でも家主でなければ、内蔵を知ることも入ることもできなかったのかもしれません。そのため、この特殊な形態が世間に知られることは何百年もありませんでした。しかし、地元の地域センターの会長である加藤さんや文化財協会の方、建築士の方によって写真集が制作されることになり、その流通に伴ってやっと、価値が知られるようになりました。

この写真集が刊行されなかったら、我々は知る由もなかった。(増田十文字商工会のHPより引用)

写真集が刊行されてから数年で、調査が入り伝建地区に選定されたというわけです。


この日、私が宿泊させてもらった林旅館で、朝食を済ませてから廊下を歩いていて不思議な空間を見つけました。明らかに壁が厚いし下には石でできた基礎が見えます。

壁がやけに厚い。これは…

実はこの旅館の建物も、内蔵に相当する建物があったということになります。女将さんに伺ったところ、昼にお蕎麦屋さんとして営業するときにはこちらを案内している、と教えてくださいました。


ということで、長くなりましたが秋田県横手市増田町の中心部について紹介しました。以上のような要素が評価され、伝建地区として指定されたことがわかっていただけたと思います。
私はこの日、また街を歩いていて朝市をやっていることに気づきました。次の記事で、その朝市と、聞き取りでわかった朝市の歴史と現状についてご紹介しようと思います。

参考資料
横手市増田町 伝建地区特設ページ
市公式の情報がまとめられたページです。

横手市増田伝統的建造物群保存地区保存計画(2018.07)
伝建地区に選定されると、建造物や街並みには、いくつかの「修景基準」が指定されます。それらについて詳しく述べられた報告書です。

横手市増田町 増田の内蔵豆知識
内蔵の説明はこのサイトを参考に噛み砕いて説明しました。詳しく知りたい方はこちらを読まれることをお勧めします。

旧街道地図・高低図 小安街道
全国の旧街道の地図がかなりわかりやすく地図上に示されています。増田に限らず、旧城下町などを調べるのに役立ちそうです。UIしっかりしてます。

西成瀬地域センター(増田町ことば調査2005)
吉乃鉱山について少しだけ触れましたが、鉱山のあった地域には、従事者の家族が住んでいたのですが、この地域が、アクセスが決して良いわけではない場所にもかかわらず、進んだ教育がなされていたという事例についての研究成果が示されています。鉱山を所有していた大日本鉱業がお金を出し、この地域の小学校でかなり早い時期から、オルガンを導入したり標準語教育を推進していました。

JT 専売化された「たばこ」
文字通り、専売化される前後の歴史が書かれています。今の同世代の人には専売公社って言っても伝わる人少ないんじゃないかと思います。タバコ吸わないのであんまり触れる機会がない…

“②在郷町「増田」の発展を知る” への1件のコメント

  1. […] 前回の記事で調べた増田町の歴史と合わせて、この朝市を考えてみます。 […]

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