③(完)MONPEが伝える地域文化とまとめ-

最後に紹介しようと思うのが、うなぎで主力のMONPE。元来、もはや国民服と言ってもいいほどに全国で着られてきたもんぺに着目したブランドです。この商品の開発と発展のさせ方を具体例に、うなぎの特徴と私が学んだことを述べていこうと思います。

うなぎの寝床のホームページより

 

1.MONPE誕生の経緯

もんぺは主に作業着として、女性に多く着用されたボトムスです。素材となる布は様々でしたが、そのなかでも絣織(かすりおり)という方法で染め織られた生地はよく使用されていました。八女を含めた筑後地域はその絣織の産地で、久留米絣という名前で親しまれていました。しかし、戦後になると農家だった家庭も通勤するようになりライフスタイルが変化していきます。スーツを着て電車に乗って…というのが浸透していきますね。機械による大量生産でより安価に、かつ規格化された服=洋服が次第に着用されるようになると、もんぺのような旧来の服が売れなくなっていきました。いわゆる洋装化です。

設計図に沿って、染められた糸たちを丁寧に並べる。横糸をこの後通して反物ができる。

八女市や隣接する久留米市,広川町などにはそれらを織る工場=織元が今も残っています。地域的に特に高齢の方で旧来のもんぺを着用している人も多いそうです。着物を作るのに余った反物を継ぎ合わせて作っているイメージもありますが、そのようにして着ている人がもともと多かったとのこと。「そういえば家に切れ端があります」などと言われる方がいて、うなぎは最初、それらを活用してもらえるように、もんぺ用の型紙を作りました。しかも、その型紙は、旧来のもんぺのようにダボっとしたものではなく、適度に絞ってあるデザインをしています。その型紙を売ったのが、MONPEブランドの始まりのようです。(今でも型紙だけで売ってますね。)好評だったことを受けて、次第に完成品も売って欲しいと言われてできたのがいまのMONPEというわけです。

 

2.もんぺは、文化に興味を持ってもらえる“装置”

この商品は、とにかく型だけは共通しています。生地は久留米絣の織元さんから仕入れたものや、他地域の地域性溢れる織物も使用していて、バリエーションが非常に多いです。MONPE特設サイトの商品一覧をみているだけでも楽しいですよ。MONPEを商品化するに至ったものとして、うなぎの皆さんは「もんぺ が実は着心地が良い」という点を推したことにあるとおっしゃっています。

そしてこれもYouTubeやホームページを通じた情報発信。私は東京の渋谷ヒカリエにあるd design travelの展示で知りました。

私は文化財の保存という文脈で各地のものづくりに興味を持っていましたので、「久留米絣という技術がこんなパッケージで売り出されているんだな、面白そうだ」と思ってたどり着きましたね。うなぎ自体も地域の技術や歴史文化の継承のツールとしてMONPEを捉えています。僕が特殊な例だったのは別として、この商品をファッションとして購入した人たちが、結果としてこの地域の技術や歴史文化に興味を持つ可能性を、この商品は持っているんですね。一見離れた世界が(わたしはこれを文脈と呼んでいます、)繋がるきっかけになっています。以下のように図で表してみました。

3.視点を価値にする

地域に対して近づきすぎず、離れすぎないでいようとする姿勢が、八女の街にとっても、会社にとっても良い方向に作用しているように思います。それは逆に、NPOや公共の団体でなく会社であることの利点であるかもしれません。まわりからは一見、地域の産業を守る組織だとか行政っぽく見えるかもしれないです。しかし、競争というと違うかもしれませんが、あくまで取引先であるという感覚が、社内で共有されているように思いました。

うなぎは、供給地に拠点をおきながらその地域を分析する場所でもあります。これが素晴らしいと思いました。みなさん、非常に客観的に地域を見ようとしていたんです。

代表の白水さんがおっしゃっていたこと、「人情に頼りがちになることが、田舎が陥りやすい落とし穴だ」という話は印象的でした。「うなぎの店舗(EC含む)に置く商品を考えるとき、長い付き合いで関係が深くなっていった作り手でも、(形骸化して)頼られきってしまった場合はバッサリ切る。」

高度に人・モノの移動が発展した場所(多くは都市)では、システマチックで、ある意味冷酷な、機械的な取捨選択が行われやすいですよね。量も多く、効率を求めていくとそれが強化されます。

うなぎは、両者のちょうどいいところを保とうとしているのではないでしょうか。ハイブリッドな考え方だと思います。そこの意識が、地域文化商社というコンセンプトに現れている気がします。公ではなく会社であることの所以だと思います。

地域に仕事をする人がいなければ、雇用がなければ、地域は存続し得ないということを、私は長崎の池島に通っているここ4年間で痛感しています。だから特に、うなぎの寝床を見学してみて、公共に近い役割をこなしながらMONPEという商品の開発・デザインや流通の仕組みを整え(=地域文化商社)、地域の織元が存続する土台を整備しているようにも感じました。

そして結果、ここで大事だと思わされたのは、視点を価値にしようということでした。「もんぺの機能性に注目して売り出し、一方で地域のことを知ってもらうきっかけにもなる」ように開発されたことが、商品の価値となっています。違う切り口を用意して、色々な人に解釈してもらえるようになるということです。

 

4.最後に

4本にわたる長い記事を通して、私が福岡県八女市に行って何を学んできたのかお話ししました。最初の記事では、なぜこの街を訪れることにしたのか、僕自身の高校時代の経験が影響していることを交えて説明しました。2つ目の記事からは、「八女で学んだこと」と題して、八女という土地がどういう経緯で発展したのか、そして現在の街のキーマンたちから聞いた話を紹介しました。3つ目の記事ではそのなかでも私が拠点として過ごしたうなぎの寝床というアンテナショップが、どういう会社で街にどんな影響を及ぼしているのか触れました。そして最後にこの記事で、主力のMONPEを題材に私が学んだことを紹介しました。

学んだことは総じて、新しいものを開発してきたというよりも、街に眠っている素材を発掘して知ってもらい、そして利益を出しつつ地域産業の可能性を開いていくかの実践にあった気がします。特に、分業である久留米絣などのものづくり分野は、それに携わる人たちにしっかり利益が分配されていくことが重要です。

そしてこれらの目線や取り組みは、どこの地域にも応用させられる眼差しだと思います。またそのためには、うなぎの寝床だけでなく、一つ目の記事で紹介したように、街に関わる色々な立場の人たちがいることが重要だとわかりました。

グローバルな経済論理のなかで、安く当たり前のように同じ規格の商品が手に入り、日常生活が成り立っているというのは、ある意味特別なことかもしれません。ちょうどこの記事を書いている前の日には、コロナウイルスで緊急事態宣言が出たところです。不思議なきっかけではありますが、人・モノの大きな移動に不利な状況が生まれました。自分が普段使っているものがどこで生産されてどういう経路で自分の元までたどり着いたのか。身の回りのあらゆるものが、大移動してきていたことに気づきます。

そこで改めて、小さな地域=自分の生活圏に多くの人が注目しているような気がします。長引くと思われる移動の自粛で、今後、自分の住む地域について考えたり、ものづくりとは何か、流通とは何か考えられる機会でもあります。

都市への一極集中や情報の集積について捉え直されていくような気がします。近い興味を持つ、同世代を中心に、こうした構造や地域政策について議論をしていきたいと思っている今日この頃です。

わたし、兒玉真太郎はいま大学3年生の春を迎えていますが、何らかの形で、地域とそこに住む人たちを紹介したり、もしくは地域に入り込んで、あらゆる調査をふまえて“発掘”していける人になりたいと思っています。まずは目の前の1年間でできる限りの情報発信をしていけるように動く予定です。ぜひともよろしくお願いいたします。

最後に、うなぎの寝床のみなさん、燈籠人形保存会の馬場さん、NPO空き家スイッチの高橋さん、許斐本店の方々、織元のみなさんなど、突然の訪問にも関わらず見学・取材を受け入れてくださったみなさんに感謝申し上げます。

読んでくださった皆さんも、体調にはお気をつけて。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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